ヴォネガットの研究読本としては北宋社の『吾が魂のイロニー』1984年がありましたが、あの本は愛読者にとってはガッカリするような代物でした。日本語以前の文章が多かったのです。 今回のヴォネガット研究読本はYOUCHANこと伊藤優子が浅倉久志インタビューを軸に企画を進めていた本が浅倉氏の逝去により頓挫した悲しさと悔しさが原型となって実現したといいます。巽孝之の人選により優れた若い書き手が集まり、ヴォネガットの魅力を展開するだけでなく、書誌や年譜もこれまでになく充実したものになっています。伊藤典夫の改訳短編や「ヴォネガットがいちばん笑えたころ」という寄稿もあります。たぶんヴォネガットの心意気に日本でもっとも近かったのは田中小実昌でした。「20世紀への送別の辞」でヴォネガットは2000年という区切りは「無害な非真実」つまり「フォーマ」であると言っているように読めます。フォーマとは『猫のゆりかご』のボコノン教が表すウソのこと、例えば「神様」とか、ね。田中小実昌ことコミさんも牧師さんの説教をポロポロと言い表すような作家でした。ヴォネガットのすべてを読んできたファンにとっても再読の意欲をわかせるような素敵な研究読本が出来たことを喜びたいと思います。 カート・ヴォネガット (現代作家ガイド) 関連情報
昔の日本は、もっと集落が小さくて、良きにつけ悪くにつけ、もっと片寄せあって暮らしていた気がする。そんな気持ちを思い起こされるドラマです。高尾山の住民たちは、いい意味でも悪い意味でも、他人のことに干渉していく昔ながらの日本人として描かれています。すぐ噂になるし、たまらない面も多く、外に出てしまった長女と、外にあこがれる次女。共に高尾山の箱入娘です。良い家の子女とは違って、早く帰らないと帰れない、という設定の面白さが秀逸ですね。見た後に、ほんわかとしてくるのは私だけではないと思います。まだ、ご覧になっていない方はお試しあれ。昔の日本もいいなと思えるはず。本当にいいドラマです。蛇足ですが、高尾山のケーブルカーで上がったすぐの所の十一軒茶屋さん(ドラマの古森家です)に飯島直子や深キョン、キース役のマークコントン、純平役の玉山鉄二の写真が飾ってあります。それを見ながら、花が売っていた焼団子をいただくと楽しいですよ。 ハコイリムスメ! DVD-BOX 関連情報
ボブとはたらくブーブーズ シリーズ2 Vol.1【二カ国語版】 [DVD]
レンタルビデオ店で子供が気に入り見せていたのですが、返却するたびに泣かれたので購入!男の子は乗り物が好きな子が多いですが、うちの子は中でも「重機好き」で登場するキャラクターをみては興奮しています。かなりたまらないようです。色使いもとてもきれいだし、英語も子供むけアニメだけあってわりと聞き取りやすい気がします。英語を勉強してる大人にもいいかも・・・ ボブとはたらくブーブーズ シリーズ2 Vol.1【二カ国語版】 [DVD] 関連情報
SNSをテーマにした近未来ディストピア小説。500ページ超ありますが、めちゃくちゃおもしろいので読み始めたら一気に読めます。何よりSNS中毒の僕には非常に考えさせられる内容でした(それにしてもこの「考えさせられる」というコメントは、実は何も考えていない人が何かを考えているフリをするときのストックフレーズでもあって、その意味では非常にSNSとの親和性が高いと思うんですよね)。実際に「色々なことを考えさせられた」ということを証明するために以下、少しだけその「考えたこと」の内容を記しておきます(先に弁明しておくと、以下に展開されるものは、結論よりもその迂遠的な思考過程にかろうじて意義が宿っているかもしれないというタイプの、その意味ではSNS的と言えなくもない文章です)。何より改めて再認識させられたのは、SNSがコミュニケーション・ツールであるということです。そんなことは今さら言うまでもなく自明のことでしょうが、問題はそれがあまりにも非生産的で行き過ぎたコミュニケーション・ツールであるということです。SNSはコミュニケーション・ツールなので、そこで必要なのは自分が共有しようとする情報それ自体の価値ではなくて、コミュニケーションのための材料だということになります。情報というのは本来はその希少性に価値があるので、実は広く受け入れられる言説はそれが広がりを持てば持つほどその価値を下げることになります(みんなが知っている情報に情報としての価値はありません)が、コミュニケーションの遂行にはまだ誰も知らないような新情報はむしろ障害物でしかありません。希少な情報、すなわちまだ人々に一般的に受け入れられていない情報は、前提を共有できていないために、説明する方もその背景を一から説明するのに膨大なエネルギーを要するし、そんな複雑な話は受け手もたいていは面倒臭がって最後まで読み通してくれないので、人々の間に浸透していきません(これは僕の経験則ですが、人間の好奇心は実はほどほどに既知の事柄にしか反応しません。だから多くの人は学校のお勉強が嫌いなのです)。したがって、コミュニケーションをとるために誰もが使う言葉の情報量は限りなくゼロに近づきます。「おはよう」とか「おやすみ」とかのあいさつの言葉がその最たるものですね(素晴らしき哉、小津映画!)。コミュニケーションのためだけに使われる、ヤコブソン風に言えば交話的な機能を有する一連の言葉がありますが、その情報量はゼロです。SNSというのはコミュニケーションの極北、というかほとんど墓場みたいなものなので、そこでのやりとりは文字通り極限まで情報量が縮減されていきます。肯定的な反応は「いいね」ボタンのクリックだけで表明できます。仮にコメントするにしても、それらはほとんど定型文といっていいもので、内容に意味はありません。そこでは肯定的なコメントをしたという事実だけが重要なのです。改めて強調しておきますが、円滑なコミュニケーションにとって意味はむしろ障害なのです(一般に「コミュ力が高い」と言われている人の頭が空っぽなのはそのためです)。要するに、SNS上の言説は基本的に情報としての価値がゼロのゴミということで、そんなもの毎日何時間も入れ込むのはあまりに不健全だというのが一点目のポイントです(今さら当たり前すぎる主張ですね)。SNS上でもてはやされ、注目を集める言説、今風にいえばよく「バズる」記事は情報としては無価値です。より正確に言うならそこには本質的に新しいものは何も含まれていません。まとめサイトでとりあげられる事件とそれに対する反応のワンセット、芸能人のどうでもいいゴシップ、その他そこでまとめられているどうでもいいトリビアのことを思い浮かべてもらえればお分かりだと思いますが(そしてこの前提が共有できない人には残念ながら何も伝わらないでしょうし、そもそもそういう人はここまで読んでいないでしょうけど)、それらは語り口から読者の反応まですべてテンプレート化されていて、何か新しいもの、オリジナルなものが入り込む余地が基本的に一切ありません。反射的に「いいね」を押させたりシェアさせたりするには、基本的に読者に考えさせたら負けなのです。ユーザーの思考停止点の浅さを涵養することこそがSNSを支える根幹原理なのであって、記事を拡散させるためには何か画期的なことを言ってはいけないのです。なぜならSNSはコミュニケーション・ツールだからです。もちろん情報入手の手段としてSNSが有効である場合はいくらでもありえますが(震災時の安否確認等)、基本的には時間の無駄です。しかしコミュニケーションを時間の無駄と言って切り捨てるのは、人間の人間性を無視するに等しい暴挙で、結局問題なのはその極端さだということです。久しぶりに会った友人とカフェで数時間話し込んだり、あるいは付き合っている恋人と毎週末をともにするといったタイプのお互いの生身の身体が同時に存在していることを前提とするコミュニケーションとは決定的に違って、SNSは相手の状況に関わりなく参加することができます(たぶんがこれが二点目のポイント)。それは歯止めが効かないということでもあります。相手が目の前にいれば、そろそろ話のネタも尽きたし、とか、終電があるから、とか、明日も朝から仕事だから、といった現実的な諸々の理由によって自然と制約がかかるのですが、空いた時間にパソコンやスマホの画面を前にしてSNSに費やす時間を制限できるのは自分の意志だけです。僕のように意志の弱い人間がだらだらと費やす一日数時間×毎日のSNS時間=無駄な時間は、確実に僕の人生からその分の生産性を奪い、人間性を蝕んでいます。もちろん非生産的な「無駄な時間」それ自体は、人間性を維持するためにはむしろ必要な時間です。誰もが知る通り、適切な息抜きはむしろ仕事の能率を上げるために必要なものです。SNSが非人間的なのは、生身の相手の存在に対する要請が希薄化されるために、容易に極端に傾きがちだからです。完全な「透明化」=自分に関する無意味な情報の垂れ流しは端的に暴力でしかないし、そんなことがまかり通る世界はやはりディストピアでしょう。 ザ・サークル 関連情報
流れるようなワルツ。このアルバムを聞きながら、絵を描くと、気持ちよく筆が滑ります。表紙の恭子さんの写真に、小さなイラストが入っていて、珍しいジャケットです。ジャケットの色のような、すがすがしいヴァイオリンの音色です。 Grand Waltz 関連情報